いつまでも立ち止まってはいられないから | ☆

いつまでも立ち止まってはいられないから

気持ちの整理がついたかといわれればつくわけもなく
それでも私自身に対しての色々な戒めも含めて…
今…多少落ち着いた今、ようやく文章に書きとめておく気になった


前回のブログ…ミリオンゴッドで9000枚出し財布が暖かくなった翌日、

日曜のお昼に甘デジをのんびり打っている私


まだパチンコ屋に入って10分ぐらい、99分の1の当りを1000円で居止め

今後の展開を期待している私に一通の電話が来た

 

母側の祖母が亡くなった
  
今年に入ってから具合が悪いという話は聞いていた私

祖母の年齢は99歳、もうこれだけ齢を重ねると
体力が回復するという方向にはいかない事は私にだってわかる
 
何年か前、父側の祖父が亡くなった時は
これからの生活がどう変わるかと動揺した私だったけれど
翌年に父側の祖母を亡くし、それでも生活が何も変わらなかった私は
誰であれ人は産まれたら必ず死ぬ、そう理解できるようになっていた筈だった 
 
これが大人になるという意味なのかと考えたり
自然の摂理に対してのききわけのない我侭を言わなくなるという事が

成長という事なのかもと考えたりもした
 
痴呆症を患っていた祖母はずっと施設で暮らしていた

何年か前に倒れた拍子に骨を折り、
それから面倒を見る人がいないという事でずっと施設に入っていた
 
母側の祖父は戦争で亡くなり、祖母は女手ひとつで母を含む3人の娘を育てたという

私の母は次女で、長女は脳梗塞を患いずっと施設のベッドで寝たきりになっていた

長女夫婦には子供はおらず、婿養子に入った夫だけが2階に住んでいた


母が祖母の見舞いに行くと、祖母は泣きながら「死ぬ時は家で死にたい」と母に訴えたという

それでも家に一人で生活する事が不可能だから母も心を鬼にして施設に預けたままだった

 

痴呆症を発症してからは、時々おかしな事を言い始めるので
私が結婚する前に実家に挨拶に戻った時も母は祖母を嫁を会わせる事を私には勧めなかった

 

嫁に心配かけさせたくなかったのだろう

 

結婚して初めて嫁と祖母を会わせた時
祖母はその頃にはかなり珍しく正気で
私の嫁の手をとって「お初にお目にかかります」と言った
 

それが私が祖母と話をした最後の時だった

 

そして施設から体調不良で病院に運ばれ
祖母はそこで息を引き取った

 

娘3人と暮らした家に帰る事もなく…

 

知らせを聞いた私はすぐに会社に電話をして実家に戻る事を告げ
嫁と共に翌日の始発で八幡浜まで新幹線を乗り継いで帰った
 
駅から自宅に戻るよりも、もう遺体を移した葬儀場に行った方が早いという事で

父の車に乗り葬儀場へ行った

 

葬儀場について祖母の遺体に水をあげ
今後のお通夜やお葬式の予定を確認した
 
父側は農家だったので祖父も祖母も山仕事で体も大きかったが
母側の祖母は小さい人だったので棺おけも小さかった
 

それでも棺おけの中でさらに小さい祖母を見た時
その表情からは何も読み取れなかったけれど瞼に涙が溜まった

 

 


私は小さい頃、両親が共働きで父側の祖父祖母が山に仕事に行くと
私は決まって母側の祖母の家に遊びに行っていた


夏は冷房がなく、扇風機一つでどれだけ暑くても泊まった
近くの川に祖母と一緒に行った事をよく覚えている
 
テンコ(網)を持って魚を捕まえ、
ちいさいバケツに入れて家までよく持って帰っていた
 
三女は東京に住んでいて、母側の私の従兄弟にあたる二人は
恐らく1度か2度しか祖母と会った事がないと思う
 
祖母にとって近くにいる孫である私と姉はかなり可愛がられていたと思う
 
それが中学生になり友達が増え高校生になり行動範囲が増えると
徐々に祖母の家に遊びに行く事が減っていった


高校を卒業し、東京に就職する時は挨拶に行ったが
田舎に戻り、再度関東に出る時には何も言ってなかったと思う
 
施設に入った後、両親に連れられて会いに行った時
一日何もする事がなく、どんな気持ちで過ごしているのだろうと思っていた

 

何も変化も刺激もない生活を

 

結婚し戻ってきたら何回も施設に足を運ぼうと思っていた
両親共に忙しい中、家族以外の人に囲まれて過ごす時間
少しでも私が一緒にいたかったし、それはある意味義務だとも思っていた
 
嫁と一緒に会った時、もう年齢的に目も見えなくなってきていると祖母は言っていた。

それでも孫である私をわかってくれていた祖母…
 
あの時握った祖母の手はもう骨と皮だけで、
90歳を越え生きている祖母の「老い」を垣間見た気がした

 

 


お通夜もお葬式もあまり人は集まらなかった
99歳ともなると祖母の知っている人達はもうすでに
一足早く旅立ってしまっている人も少なくはない

少人数で、長女の婿が片言ながら挨拶をしてお通夜は執り行われた
 
翌日お葬式が午後からだったので午前中に遺体を火葬し
午後からお葬式をし、骨を自宅に持ち帰った

 

あれだけ帰りたがっていた自宅へ
 
骨を持って久しぶりに入る祖母の家は、畳が腐りかけ歩くと
ミシミシと何年の手入れされていない事を物語っていた
 
祖母が毎日拝んでいた祖父の遺影の前で
「ばあちゃん、逝ったけん…よろしく頼みます」と
そう呟いた時、堰を切ったように涙が溢れ、
その場に崩れ落ちるようにテーブルの上に骨を置いた
 
それから自宅に戻り、皆が寝静まった頃
隣に眠っている嫁に気づかれないようにずっと泣いた
 
お葬式と一緒に49日を済ましていたので翌日納骨をした
納骨をした後すぐに関東に向かって出発した

 

たった3日の帰省だった
 
いつまでも私が変わらなければ周りも変わらない わけではない

 

施設にいる間に祖母に会いに行く事があまりできなかったという自責の念は

未だに私の首元を締め上げ続けているし、もっと接していたかったという自分勝手な希望は

時間という流れに容易く打ち砕かれた

 

気持ちがある程度落ち着いてから書こうと思ってずっとブログを書くのを躊躇っていた

ようやく落ち着いて書けると思っていたのに、途中で時々視界を遮るように出る涙を感じると
私はまだ全然大人にはなっていないのだろうか…

 

いつまでも立ち止まってはいられないから

この文章を、これから私が接していく人達に対して

私が私に対する戒めとして文章として残そうと思う

 

私は明日からもう少し人に優しくできると思う…